・略歴
田中 健司
明治大学卒業
東京都足立区生まれ。
趣味は乗馬、カヌー、読書、一人旅、合気道、空手、バラ栽培など。
以下は、私の歩んだ道です。
病気を20以上克服し、大学時代に体力を付け、
現在は様々な事に挑戦しています。
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・幼稚園時代
東京都足立区に生まれた。病院は文京区。
私が物心ついたのは、3才の時。
警察にイタズラ電話した事を覚えている。
自動発信装置で、ボタンを間違ってかけてしまっただけなのだが。
父が焦って電話を替わり、フォローしていた事を覚えている。
父は普通のサラリーマンで、母は普通の主婦。
カブトムシやキリギリスを取ったり、ハコネサンショウウオや、
イナゴを取り、はたまた海で子イワシを釣った記憶が残っている。
牛乳屋さんの老夫婦の軒先にあったキンカンの木に、
アゲハチョウの幼虫を見つけて、大喜びで家に持って帰る。
毎年ここで卵や幼虫を見つけ、蝶になるまで育てた。
それが私が生き物が大好きになるきっかけとなった。
4才で、幼稚園に入園。クラスに溶け込めなくてイジめられる。
それから中学入学まで、あまりクラスの輪に溶け込めなかった。
3歳位から友達がいたが、生意気だったので、なかなか仲良くなれなかった。
この頃、初めて我が家にパソコンが来る。
5才になると、図書館からパソコン雑誌を借りてきて、
プログラム言語「BASIC」を本の通り写して自作ゲームをしていた。
機械語で打とうとしたが、さすがに根負けで挫折した。
そんなスーパー天才児は、6才で公文式デビューした。
圧倒的なスピードで吸収して行ったが、
忘れる速度も早く、3,4年生レベルを行ったり来たりしていた。
2才半~の小児ぜんそくと肺炎、風邪を引くのはしょっちゅうだった。
運動は全くダメだった。
・小学校時代
相変わらずイジメられてはいたが、勉強だけは得意だった。
兄によると2年生の時に微分積分の基礎をやっていたと言うが、
それは兄の錯覚と思われる。
小学校1年で九九は完璧だったし、3年生では中学受験を目指す受験生の中で、
全国トップレベルの成績を取る事になった。
いじめられっ子なのにとても気が強く、弱いのに毎日いじめっ子に刃向い
、毎回やられる事になった。
勉強を全力でやっていたので、自信たっぷりだったのだ。
自分が大嫌いで、生意気なヤツだった。
明るくてうるさくて、いじめられっ子なのに友達は沢山いた。
「人と違う事をやる!」が信念で、貧乏でも世界で一番スゴい生物学者になる事が夢だった。
このまま順調に進んできっと東大に受かっても「世界一じゃないじゃん!」
と生意気にもあっさり蹴っていたに違いない。
そして・・運動は苦手だった。
3歳から小4まで水泳を習っていたのに、平泳ぎもクロールも泳げなかった。
唯一出来たのは、縄跳び位だった。
私を支えていたのは、生き物との触れ合いだった。
365日毎日のように原っぱに出かけては、虫取りをしていた。
家では二週間で50円という小遣いを貯めて、熱帯魚やかえる、カブトムシその他
ありとあらゆる生き物を飼っていた。
虫のプラケースや水槽は、大小いくつあったか覚えていない程だ。
ここで、人生の転機が訪れる。
4年生の終わりに両親が離婚。今でも父と会っていない。
ショックで成績はガタ落ちし、私の唯一の誇りを失った。
自信が無い→性格が暗くなる→他の事は何も出来ないの悪循環な思考の繰り返し。
偏差値は70→36!約半分になってしまった。。
5年の終わりから家庭教師が付き、何とか55まで回復。
落としに落とした第二志望の明大中野中学に合格し、進学する事になる。
とにかく変なヤツだったし、服装や髪型・行動にはモテる要素のカケラもなかった。
本気チョコはいとこからもらった一個だけだった。
・中学時代
男子校に進学・・したものの、入学当時は女の子は嫌いだったから良かった。
自信を失いはしたが、中学で私立に行く事で周りとの関係が切れた!
これでまた自由だ♪とばかりに中学二年の途中までは、非常に順調な人生を歩む。
全国学力テストで理科100点を取り、全国トップだあ!!と喜んでいた。
この一瞬が、大人になってからもトラウマの原因になろうとは・・。
成績がこの頃から下がりまくった。
1年では成績優秀(入学はトップレベル?)だったが、3年にはかなり成績が落ちていたのだ。
「もう頑張っても出来ない。もう100点には戻れない」
という無意識のブロックが出来てしまっていた。
中学になっても、またイジメられていた。
この頃から色々変な事をやってからかわれていた。
実際、変な奴だった。
とにかく、つらかった。逃げ出したかった。
なぜかこの頃オーディオにこり、全く使っていなかったお年玉で
15万円以上かけてピュア・オーディオの世界を楽しむ。
スピーカーから出てくるきれいな音が、私を夢中にさせた。
音楽のセンスは特殊だがあり、音楽の成績はいい方だった。
中学から今までずっとENYAのファン。
射撃部に入部するが、1年の途中でやめた。
正直、つまらなかった。一生懸命になれなかった。
相変わらず、自然の事は好きだった。
友達と沖の防波堤に釣りに行ったり、山登りではあけびを注意して探した。
特に中学時代は釣りに夢中になり、親と城ヶ島に二度行ったり、
自分一人で出かけたりした。
・高校時代
付属校だったので、特に試験を受ける訳でもなく明大中野高校へ進学。
中学時代の友人を引きづったのが、今思っても悪夢の続きをする事になった。
勉強は好きな地理と生物以外はイマイチで、とても大学受験生と対抗出来なかったが、
大学の推薦をもらうために、どの教科も満遍なく出来ていた。
高校から入学した同級生は偏差値68を突破しており、抜かれるか?と思ったが、
真ん中少し上の成績は全く変わらなかった。
・1~2年は暗黒時代。
一部の人にはイジめられていて、毎日学校へ行くのが辛かった。
唯一の楽しみは、親友Kと毎日1駅離れた家まで歩いて帰る事だった。
彼はいつも自転車で塾で急いでいて、私はそれに早足で付いてくる。
いいヤツだった。今でも会えるもんなら会いたいが、彼とは決別する事になる。
この頃はオーディオにさらにハマっていた。
ケーブルや設置の仕方、部屋の音響をどう整えるかまでかなりの知識を得た。
結局出した結論・・「安くて気軽にいい音が聴けるのが一番いい」だった。
そして、小さい頃からずっと憧れだったピアノの代わりに、
親にキーボードを買ってもらった。
今井美樹の「プライド」を簡単にしたものを少し弾けるようになった。
しかし、最後まで弾けるようにはならなかった。
高校時代のもう一人の親友Nは、現在もたまに会ったりしている。
彼も釣りが好きだったので、一緒に「遠征釣り」へ出かけた。
船で何時間か沖に出て、大物を狙うのだ!!
・・・のはずが、低気圧が来ていて船酔いで死にそうになっていた。
船内のゴミ箱が転がるのに合わせて、吐き気がしながら転がっていたのだ。
ただ、置きっ放しにしていた竿に1キロ位のカンパチが勝手にかかっていて、
その日はおみやげを作る事は出来た。
彼とは何度か釣りに行った。
そして、対照的な悪友Kがいた。
私を毎日ゲーセンに連れ出し、初めて彼と合コンに行った。
女の子とはしばらくポケベル(通信料小遣いはたいたのに・・・)
で連絡を取っていたが、モテない私はあえなく撃沈。
彼には空手部時代に酒を飲まされて危うく命を落としそうになった為、
それから気まずくなって連絡は取っていない。
高校も3年生になると、楽しい友達が出来て毎日が少し楽しくなった。
が・・優しい奴だった同級生Uが死んでしまった。。
彼の死で、クラスは一日暗く・・・なるはずだったが、1時間過ぎた後は
元の雰囲気に戻っていた。中学1年からいじめに加わる事も無く、サッカー部で
運動も出来るのに優しくていい奴だった。
私は、彼の母親に頂いた靴下を大学まで履いていて、その度に彼の分まで頑張ろうと
心に誓うのだった。
・大学時代
大学に入ったものの希望と違う理系の学部であるものの文系の学科(農業経済)で、
実験が出来る訳でもなく無為に過ごして行く・・と思われた。
しかし、私は空手に出会ってしまった!!
ここで、私の人生は大きく変化する事になる。
空手は友達から誘われた。悪友で、おれをいつも引きずり回すあのKだった。
でも、空手にハマってしまった!!おれにも出来た!!
1年~2年
デートに空手に、一人旅にギターや園芸サークルに授業にと、
目が回るような忙しさだった。
ギター部は1年経たないうちにやめたが、園芸サークル(バラ担当笑)
は、4年生まで続いた。
個人的に少しだけ筋トレしてたとは言え、
運動オンチだった私が空手をやるというのは、
本当にすごい変化だった。
2年生になった時、見学に来た人とのやり取りは忘れられない。
私 「こんな感じだよ」
(蹴りと突きのコンビネーション)
後輩「カッコイイ!!」
私 (にやり笑)
あと1年生の学祭の時に、よく花壇なんかで使われる
コンクリートブロックを二枚重ねて足で割った。
大観衆の前だったので、拍手喝さい!!!
気持ち良過ぎる!!まさに絶頂だった。
あの運動神経ゼロの私が、サンドバックをブランコのように揺らす事が出来る♪
毎日が快感だった。
一度、揺らしすぎて支柱が壊れた事があった。
今カミングアウトします。
やってないって言ってたけれど、あれやったのは私です笑
又、この頃からピアノを習い始めた。
結局、在学中は続ける事になるが、
憧れのピアノだ!
仕送りの貯金とバイトで15万円で中古の電子ピアノを手に入れて、
夏休みは汗だくで一日5時間位は弾いていた。
演奏は消耗が激しく、深夜にフラフラになって寝ていた。
最初は両手で弾くのがやっとだったレベルから、
実質習ったのが2年で、最後はショパンの「子犬のワルツ」
を弾いていたが、意外に力になった事があった。
彼女を感動させたかったのだ。
彼女は、私のピアノ演奏に夢中になった。
それが嬉しくて、大好きなピアノがもっと好きになった。
もう、毎日がピアノ漬けになっていった。
腱鞘炎は悪化し、毎日激痛に悩むようになった。
3年~4年
ゼミに入ったが、どうも馴染めなかった。
途中2ヶ月間ゼミに顔を出さない事もあった。
その間、授業以外は引きこもっていた。
原因は覚えていないが、人間関係に悩んでいた気がする。
公務員志望だったので、一般の就職活動はしなかった。
なりたかったのは、環境省の「レンジャー職」だった。
自然に関わりたかった私は、環境保護関連のNPOで、
1ヶ月無料で研修を受けていた事もあった。
小学生達には、抜群の人気を誇った。
犬と小学生にはなぜかモテる笑
だが・・公務員試験を知れば知る程、絶対になりたくない
職業だという事が明らかになってきた。(公務員の方、すいません)
レンジャーは一年の殆どは許認可業務。つまりはハンコを押す仕事だ。
「もっと自由な仕事が絶対いいのに、おれは何やってるんだ・・・」
そんなモチベーションのかなり低い中受けた結果は・・・
国家公務員、地方公務員、市役所全て全滅!笑
全国津々浦々の試験を受けたが、当時就職氷河期で公務員人気は絶頂!
ヤル気が無いのに受かるはずが無い。
ピアノはさらにハマっていたが、先生が遠くに引っ越してしまった。
しかも、新しく入ったピアノ教室の先生がどうしても好きになれず、
何と2ヶ月で辞めてしまった。それでも、ピアノは弾き続けている。
今でも少し心残りなのは、屋久島の上屋久町役場の募集が無かった事。
あの島に戻れるなら、私は何でもする!
それ位、屋久島は大好きな場所だった。
もし公務員にマグレでも合格していたら、ピアノを教える気にはならなかっただろう。
4年生からは、町の合気道道場に通った。
私は小さい頃から首が極端に弱くて、通い始めの頃は朝目覚めたら
全く起き上がれない事もあった笑
2年続けて、神奈川に引っ越す少し前にやめたが、空手の強引さとは違って、
受け流して、自然体で相手の力を利用するという考えは、
私の生き方にかなりプラスになったと思う。
・社会人時代
結局私は、SEになる道を選んだ。理由は取りあえず、得意だったから。
新人研修から一日中コンピュータと向き合う日々だ。
私は、人生に不安を感じつつ仕事をやっていたが、
上司との人間関係で悩みある日仕事中突然体を壊して、
病院に駆け込んだ。結果は胃潰瘍一歩手前。
ストレスによるものだそうだ。
この日の帰り、私は何故かフラフラと本屋に立ち寄った。
そして、そこで見つけたのが、「ユダヤ人大富豪の教え」というビジネス書だった。
そこには、大学生だった筆者が、どんどん人にを喜びを与えながら、
経済的にも人格的にも成功していく話が綴られていた。
ビジネス書なのに涙が止まらない。
「おれが求めていた人生は、これだ!!」
そう直感した!人に喜んでもらって仕事が出来たら、どんなに素敵だろう。
でも、どうしたらいいのだろう??
それからこの仕事は辞めて転職しようと決意し、つなぎで家電量販店で働くようになっていた。
そこで私が取った行動は、社長のような人を見かけたら、声をかける事だった。
不特定多数が集まる場所なので、そういう方は結構いるものだ。
何人かの社長に声をかけて、「事務所を任せてやる」と言われた事もあったが、
なかなか自分が思うような人に出会う事は無かった。
しかし、ここで思わぬ事態が!
この仕事は給料が3ヶ月後だったのだが、最後の一ヶ月を700円で生活しなくてはならなくなった。
これに焦った私は、その日出会った社長さんに事情を話した。そうすると・・・
「社長になりたいとは面白い!!うちに毎日食べに来なさい。」
実は、この方は今はカラオケ喫茶を営むおやじさんだが、
元特攻隊で、終戦後会社を営んでいた。非常に人当たりの柔らかい方だった。
私は、一度一緒に食事をした時に、こんな約束を取り付けた。
「仕事の事は、私が教えてあげよう」
その方からは、色々な事を学んだ。
だが私は、数ヵ月後に友達からの紹介で職を頂く事になり、
その社長さんの元から離れる事になった。
それから私は色々と勉強し、沢山の人に純粋に喜んでもらえる事をしようと努力してきた。
結果、HPならこんな失敗だらけだった私でも、人を勇気付ける事が出来ると思ったのだ。
「大好きなピアノで、誰かに喜んでもらう」
こんな事を胸に誓って、このプチピアノ講座を開いた。
講座だけでなく、ピアノが好きな人が集まる素敵な場所を作るつもりだ。
あなたには、ピアノの楽しさを味わって欲しいと思う。
そして、大切な人を誰よりも大事にして欲しいと思う。
私の夢や気持ちは、伝わっただろうか?